大橋 秀行 おおはし ひでゆき
- 元WBC世界フライ級チャンピオン
- 大橋ボクシングジム会長
- 元日本プロボクシング協会会長
- モチベーションアップ/芸能・文化・スポーツ
- 1965年3月8日
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- 全国
世界チャンピオンを育てる指導論とは
現役時代は「150年に一度の天才」といわれ、「ライト級に匹敵する」
と言われた軽量級ばなれした強打者ぶりを発揮し、
WBC世界ストロー級ならびにWBA世界同級王座を獲得する。
現役引退後は大橋ボクシングジムの会長を務め、八重樫東、井上尚弥等の
世界チャンピオンを輩出する。
日本ボクシングコミッション(JBC)理事など数々の要職を務め、後進育成に力をいれている。
講演では自らが実践してきた夢を叶える方法や逆行に立たされたときの対処法、そして、
多くの世界チャンピオンを育てた指導法などを伝える。
保土ヶ谷中学校在学中から地元の協栄河合ジム(現:オーキッド・カワイ・ボクシングジム)に所属。
横浜高等学校へ進学。海藤晃の指導を受け、2年生でインターハイ・モスキート級を制覇。
専修大学に進学するも中退。 1年時にはロス五輪予選を兼ねた全日本選手権へ出場するも、黒岩守に敗れ五輪を逃す。
1985年 プロデビュー。具志堅用高氏の「100年に1人の天才」を超えるという意味で「150年に1人の天才」と言われた。
1986年 デビュー6戦目で日本王座に初挑戦。空位のライトフライ級王座を争い10回判定勝ち。王座獲得に成功する。
1988年 日本王座に再挑戦を果たす。ライトフライ級王者に挑み、10回判定勝ち。1年半ぶりの王座返り咲きを果たすが、
その後1度も防衛することなく王座返上。6月27日、後楽園ホールで行われた世界再挑戦。
3回、3度のダウンを奪われた直後に右の強打をアゴにクリーンヒットさせ王者を大きくグラつかせた。
しかし、追撃及ばずその後4度のダウンを追加された末の8回TKO負けでまたしても世界王座は獲得ならず。
1990年 階級を1つ下げてミニマム級での世界挑戦。 後楽園ホールでWBC世界同級王者に挑む。
当時、日本ボクシング界は世界王者不在の状態が続いており、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗回数も「21」にまで伸びていた。それだけに、「日本ボクシング界最後の切り札」として期待は非常に大きかった。試合は一進一退の攻防に終始。 最後は左のボディブローでダウンを奪い、そのまま10カウント。この瞬間、世界挑戦連続失敗記録にストップがかかり、
日本ボクシング界に1年3か月ぶりの世界王者が誕生した。6月8日、初防衛戦で12回判定勝ちを収める。10月25日、2度目の防衛戦ではアマ・プロ通じて66戦無敗の選手と対戦し、4回と5回に計3度のダウンを奪われた末の5回TKO負け。8ヶ月半で世界王座を手放した。
1992年 2年ぶりの世界戦に挑戦。両国国技館でWBA世界ミニマム級王者に挑む。無敗の王者と積極果敢に打ち合い、12回判定勝ち。世界王座返り咲きを果たした。
1993年 初防衛戦。東京体育館で無敗の指名挑戦者と対戦するも、12回判定負けを喫し王座陥落。
試合後、一時は現役続行の意思を示すも、その後眼疾が発覚し、最終的には引退を決断。
初の世界王座獲得から4年後の1994年2月7日に引退表明。同時にジム開設を発表。
2007年 1月3日開催の「ボクシング・グランプリ2007」にて日本代表の総監督 就任。
『夢を叶える方法 「150年に1人の天才」と呼ばれたプロボクサー』
日本チャンピオンになるまで順調に登り詰めたが、世界では
苦難の連続。3度目の世界戦挑戦で初の世界一となる。
どのようにモチベーションを保ち世界の頂きを勝ち取ったのか。実践してきた方法を語る。
また、指導者としてどのように世界チャンピオンを輩出してきたのかなど、大橋流夢の叶え方をお伝えします。
『復活力 ~這い上がる精神~』
「誇れるのは世界チャンピオンになったことじゃなく、何度負けても立ち上がってきたことだ。」
日本・世界チャンピオンになるも防衛できず、負けても挑戦し続け、返り咲く。
その這い上がる力、その強靭な精神力はどのように身についたのか。
逆境に役立つ「大橋流這い上がる力の身につけ方」を熱く語ります。
元WBA世界ミニマム級 チャンピオン
元WBC世界ミニマム級 チャンピオン
元日本プロボクシング協会会長
元東日本ボクシングジム協会会長
【メディア】
テレビ
テレビ朝日「エキサイトボクシング」解説
フジテレビ「ジャンクSPORTS!」
【その他】
その他多数
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